【チャップリン被害者!?】池上彰の世界を歩く ハリウッドの光と赤狩り


日曜ゴールデンの池上ワールド 池上彰の世界を歩く ハリウッドの光と赤狩り が 
2018年12月2日(日)テレビ東京1  19:54~21:54にて放送されます。

「激動のアメリカがもっと分かる!」の第2弾!“映画の都”ハリウッドを池上流で歩く▽ハリウッド女優&日系人俳優を直撃!変わるハリウッドの現実とは?

永遠の憧れの街『ハリウッド』今現在、何が起こるえるのか?過去には何があったのか?神秘的な街『ハリウッド』を堪能ください!

トランプ大統領の登場で国民の間に亀裂が生じ、分断社会になったと評されるアメリカ。実は1940~1950年代のアメリカも、現在のように分断が加速していた。共産主義者などをアメリカの敵として、強引なやり方で社会から排除しようとする“赤狩り”旋風が吹き荒れ喜劇王のチャールズ・チャップリンもその被害者に…そんな赤狩りは今のアメリカに何をもたらしたのか?意外な影響を池上彰が徹底解説する!

(1)ハリウッドが“映画の都”になった3つの理由 池上一行が映画のテーマパーク、ユニバーサル・スタジオへ!  (2)観光名所“ウォーク・オブ・フェイム”を歩く なぜハリウッドスターに交じってトランプ大統領のプレートが?責任者を直撃!

(3)「赤狩り旋風」とは何だったのか? 赤狩りに立ちあがった一人のジャーナリストの人生に迫る。  (4)ハリウッドと格闘した日系人俳優 変わるハリウッドの現実を日系人俳優が語る。

《チャールズ・チャップリン》

チャーリー”サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン(Sir Charles Spencer “Charlie” Chaplin, KBE1889年4月16日1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優映画監督コメディアン脚本家映画プロデューサー作曲家である。

チャールズ・チャップリン
Charles Chaplin
Charles Chaplin

映画『チャップリンの失恋』のチャップリン
本名 チャールズ・スペンサー・チャップリン
Charles Spencer Chaplin
別名義 チャーリー・チャップリン
Charlie Chaplin
生年月日 1889年4月16日
没年月日 1977年12月25日(88歳没)
出生地 イギリスの旗 イギリス ロンドン
死没地 スイスの旗 スイス コルズィエ=スュール=ヴェヴェイ
国籍 イギリスの旗 イギリス
職業 映画俳優映画監督映画プロデューサー脚本家作曲家マイム
ジャンル 映画
活動期間 1895年1976年
配偶者 ミルドレッド・ハリス(1918年 – 1920年)
リタ・グレイ(1924年 – 1928年)
ポーレット・ゴダード(事実婚)(1936年 – 1942年)
ウーナ・オニール(1943年 – 1977年)
主な作品
キッド
黄金狂時代
街の灯
モダン・タイムス
独裁者
ライムライト

生涯編集

映画の黎明期において、数々の傑作コメディ映画を作り上げ、「喜劇」の異名をもつ。同年代に活躍したコメディアン、バスター・キートンハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。チャップリンは、ハリウッドにおいて極めてマルチな才能を示した人物であり、徹底した完璧主義で知られていた。その作品は、ユーモアの陰に鋭い社会諷刺、下町に生きる庶民の哀愁や怒り、涙までも描かれているため、純粋に笑いのみを追求する他のコメディアンとは一線を画す存在であることは特筆すべきである。各種メディアを通じ、現在においても彼の姿や作品に触れることは容易である。 今以て研究が続けられ、作品の修復プロジェクトは進行中である。関連書やオリジナルグッズも多く発売され、新発見と驚きでファンを魅了し続ける。[要出典]

前半生編集

1889年4月16日イギリスロンドンのケニントン地区、ランベスのイースト・レーンで生まれた[1]。父はチャールズ・チャップリン・シニア、母はハンナ・チャップリンで、ともにミュージック・ホールの俳優である。1歳のときに両親は離婚し、以降は母親のもとで育てられた。

5歳のとき、オルダーショットの劇場での公演で、舞台に立っていた母ハンナが喉をつぶしてしまう。そこで支配人は、チャーリーが舞台裏で様々な芸で母親の友人たちを笑わせているところを見たため、彼を急きょ舞台に立たせることにした。チャーリーはそこで歌を歌って大喝采を浴びた。これがチャーリー・チャップリンの初舞台となった。しかし、これによって母親は二度と舞台に立つことができず、チャップリン家は貧窮生活に陥った。そして1896年頃に母親は精神に異常をきたし施設に収容された。

どん底生活を余儀なくされたチャーリーは、4歳違いの異父兄シドニーといくつかの貧民院や孤児学校を渡り歩き、生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々とし、時にはコソ泥まで働いた。その傍ら俳優斡旋所に通い、1899年に木靴ダンスの一座「エイト・ランカシア・ラッズ」に加わった。1901年、父チャールズ・シニアがアルコール依存症で死去。

1903年、『ロンドン子ジムの物語』のサム役、『シャーロック・ホームズ』のビリー役を演じ、地方巡業にも参加。その後、様々な劇団を転々とし演技のスキルを積んでいった。

1908年、兄の勧めで名門フレッド・カーノー英語版劇団に入り[2]、寸劇『フットボール試合』のけちんぼ役、『恐れ知らずのジミー』などで成功。一座の若手看板俳優となった。この頃15歳のコーラス・ガールヘティ・ケリーに恋をする。

1909年パリ巡業。1910年、寸劇『スケート』や『ワウワウ』に主演し好評を博す。 アメリカおよびカナダ各地を巡業。 ことにボックス席の酔っ払いが騒動を巻きおこす『マミング・バーズ(唖鳥)』は当たり役となり、以後『ロンドン・クラブの一夜』と題されて成功をおさめた。

映画界へ編集

デビュー作『成功争ひ』(1914)より、ペテン師役のチャップリン(右側)

1913年、カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業の際に、映画プロデューサーマック・セネットの目にとまり、週給150ドルの契約で、「キーストン・コップス」で有名なキーストン社英語版)に入社する。翌1914年、『成功争ひ』で映画デビュー。セネットに「面白い格好をしろ」と要求され、チャップリンは楽屋にいって山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装で、2作目の『ヴェニスの子供自動車競走』に出演。以降『独裁者』(1940年)までこの扮装が彼のトレードマークとなった。

キーストン社のトップスターであるフォード・スターリングメーベル・ノーマンドロスコー・アーバックルらと共演し、たちまち人気者となったチャップリンは、同年に『恋の二十分』で初めて監督・脚本を務めた。この年だけでチャップリンは35本の短編と、『醜女の深情』というマック・セネット監督の長編に出演している。

国際的スター 編集

1915年シカゴエッサネイ社英語版)に週給1250ドルの契約で移籍。自身で監督・脚本・主演した作品を14本作り、チャップリン演じる浮浪者が繰り広げるドタバタコメディは人気を博した。エッサネイ社第2作の『アルコール夜通し転宅』でエドナ・パーヴァイアンスが起用され、以後8年間、公私ともに良きパートナーとして過ごす。

1916年、週給1万ドルにボーナス15万ドル、年額67万ドル(アメリカ大統領の年俸の7倍)という破格の契約金でミューチュアル社英語版)に迎えられる。ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境とスタッフの下12本の傑作を世に送った。

この年に兄シドニーが弟のマネージャーとなり、運転手として日本人の高野虎市が雇われた。チャップリンは、「ミューチュアルで働いていた頃が、一番幸福な時期だったかもしれない」と語っている。またこれらの作品はアメリカのみならず、イギリスやフランス日本など世界各国に配給され、高い人気を得た[3]

1918年ハリウッドのラ・ブレア通りに自身の撮影スタジオを設け、ファースト・ナショナル社英語版、後にワーナー・ブラザースと合併)と、年間100万ドル超の契約を結び、名実ともに世界的ビッグスターとなる。一作ごとにかける時間と労力を惜しまず、マイペースで作品を作れる環境を整え、多くの名作を生みだした。また同年には、第一次世界大戦にイギリスや日本などとともに参戦した、アメリカ政府の発行する戦時公債促進キャンペーンに尽力し、プロパガンダ映画公債』を製作。16歳の新進女優ミルドレッド・ハリスと初めての結婚も果した。

UA創立メンバー(左から)D・W・グリフィスメアリー・ピックフォードチャップリンダグラス・フェアバンクス(1919年)

1919年、盟友のダグラス・フェアバンクスメアリー・ピックフォード、監督のD・W・グリフィスとともに配給会社ユナイテッド・アーティスツ(現メトロ・ゴールドウィン・メイヤー傘下)を設立し、俳優がプロデューサーを介さず映画製作が出来る公益な場を提供する。

1921年、全米で大ヒット中の映画『キッド』を携え、故郷ロンドンヘ凱旋帰国。たいへんな歓迎ぶりで、小説家H.G.ウェルズや各界著名人と親交を結んだ。パリ、ベルリンと、戦後のヨーロッパの各都市を一巡したチャップリンは、戦禍の傷跡を人々の間に目の当たりにする[5]。帰国後、口述で『My Trip Abroad』をしたためる[4]

1923年、初の自身が出演しない監督作品『巴里の女性』をユナイテッド・アーティスツから発表。

1925年、『黄金狂時代』が記録的大ヒット。

1928年、『サーカス』を製作し、同年度の第1回アカデミー賞で特別賞を受賞する。同年、母親が死去。

インド独立の父・マハトマ・ガンディー(中央)と会談するチャップリン(前列左から2人目)。機械文明について意見が交わされた。[3]1931年9月、ロンドンにて

1931年トーキー隆盛の中、サイレントの孤塁を守って3年がかりで撮った『街の灯』が興行的な成功をおさめ、人気のピークを迎えていたチャップリンは、一年半に及ぶ世界旅行へと出立。10年ぶりに訪れたロンドンではチャーチルや劇作家のバーナード・ショーと、ベルリンでは『街の灯』のプレミアに招聘したアインシュタインマレーネ・ディートリヒと再会を果たす。

1932年、イギリスの植民地であるシンガポールジャワバリ島を経て兄シドニーとともに日本へ。神戸東京を訪問するものの、訪日中にたまたま発生した国粋主義的な士官によるクーデター未遂事件である五・一五事件の巻添えになりかける。「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者たちの間でチャップリンの暗殺が画策されていた。

1936年、機械文明と資本主義を批判した『モダン・タイムス』と、1940年ナチス・ドイツを批判した『独裁者』を発表。しかしこれら2作は政治的メッセージが強いと受け止めるものも多く、この頃から欧米や日本などにおける鋭進的な左右両派からの突き上げが激しくなっていく。[要出典]

1941年12月にはアメリカが第二次世界大戦に参戦したことで戦時体制下に入ったために、戦時中は映画製作の停止を余儀なくされた。

《赤狩り》

赤狩り(あかがり、: Red Scare)とは、政府が国内の共産党員およびそのシンパ(sympathizer:同調者、支持者)を、公職を代表とする職などから追放すること。第二次世界大戦後の冷戦を背景に、主にアメリカとその友好国である西側諸国で行われた。

概要

ローゼンバーグ事件に代表される共産主義者による深刻な諜報活動に加え、1946年からの東欧における、また1949年中国大陸における国共内戦の末の共産主義政権の成立、1948年から1949年にかけてのベルリン封鎖、および1950年から1953年朝鮮戦争におけるソビエト連邦中華人民共和国からの圧迫により高まった緊張に対して増大する懸念に合わせたものである。この場合の「」は共産党およびその支持者を指す。日本語の名称である赤狩りに対応する英語の名称Red Scareは”共産主義の恐怖”の意味であり、増大していた共産主義者の活動に対する強い懸念を示している。

連合国の占領下の日本においてマッカーサーの指令で行われたそれは、レッドパージの項を参照。

日本では赤狩り全般に対応する英語として「レッド・パージ(Red purge)」を使う場合もある。

赤狩りを扱った作品

案内人

池上彰

旅人

坂下千里子  相内優香(テレビ東京アナウンサー)

ナレーター

宮本隆治

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