【猫バカ列伝】1/14趣味どきっ!不思議な猫の世界

長谷川町子・赤塚不二夫・夏目漱石・フレディー・マーキュリーらも猫バカ?

趣味どきっ! 不思議な猫世界 第6回「猫バカ列伝」が2019年1月14日(月)21:30~21:55に、NHKEテレ1にて放送されます。

昔から隣にあるのに、ちょっと不思議な猫の世界。人は猫をどう見てきたのかを探る。第6回は作家・漫画家・アーティストなど有名人の猫バカぶりを紹介。

番組内容

昔から隣にあるのに、ちょっと不思議な猫の世界。人は猫をどう見てきたのか、を探る。第6回はあの有名人の猫バカぶりを紹介。長谷川町子、赤塚不二夫、夏目漱石、フレディー・マーキュリーなどなど。作家・漫画家・アーティストなど有名人の心温まる猫バカエピソード。

出演者

ゲスト

真琴つばさ,キンタロー。,

講師

西南学院大学准教授…山根明弘,歴史作家…桐野作人,

司会

佐々木瞳

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《長谷川町子》

日本の漫画家

長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年大正9年)1月30日1992年平成4年)5月27日)は、日本漫画家。日本初の女性プロ漫画家として知られる。代表作に『サザエさん』『いじわるばあさん』『エプロンおばさん』など。

長谷川 町子
Machiko hasegawa.jpg
本名 長谷川 町子
(はせがわ まちこ)
生誕 1920年1月30日
日本の旗 日本 佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市
死没 1992年5月27日(72歳没)
国籍 日本
職業 漫画家
活動期間 1935年1987年
ジャンル 4コマ漫画
ギャグ漫画
家族漫画
風刺漫画
代表作 サザエさん
いじわるばあさん
エプロンおばさん
受賞 1962年:第8回文藝春秋漫画賞
1982年紫綬褒章
1988年:第4回東京都文化賞
1990年勲四等宝冠章
1991年:第20回日本漫画家協会賞・文部大臣賞
1992年国民栄誉賞
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生い立ち

佐賀県小城郡東多久村(現・多久市)生まれで、3人姉妹の次女[1]。三菱炭坑の技師であった勇吉のワイヤーロープの事業開業[2]に伴い幼少時に福岡市春吉に転居した。

春吉尋常小学校卒業旧制福岡県立福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)2年生の1933年昭和8年)まで福岡で育った。父の死去に伴い1934年(昭和9年)、一家そろって上京する[3]。山脇高等女学校(現・山脇学園高等学校)に転校。

初期の活動

田河水泡の弟子になりたい」という町子の独り言に姉と母は奔走、山脇高女在学中に田河水泡に師事する[4][5]。その後、田河の引き立てにより『少女倶楽部1935年10月号に掲載された見開き2ページの『狸の面』で漫画家デビューする。「天才少女」と題したグラビアも同時に掲載された[6][7][8]。内弟子として田河家で生活するが、ホームシックから11カ月で出戻る[9]

1939年に初連載作品となった『ヒィフゥみよチャン』で女性漫画家としての地位を確立する。1940年からは、3人の女学生を描いた『仲よし手帖』という人気連載を持っていた(1942年まで少女倶楽部に連載、戦後は少女にて1949年から1951年まで連載[10])。

《赤塚不二夫》

赤塚 不二夫(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄、1935年昭和10年)9月14日2008年平成20年)8月2日)は、日本漫画家

赤塚 不二夫
本名 赤塚 藤雄
生誕 1935年9月14日
満州国の旗 満州国 熱河省灤平県古北口古城裡22号(現・中華人民共和国河北省承徳市灤平県と北京市密雲県古北口中国語版との境界線)
死没 2008年8月2日(72歳没)
日本の旗 東京都文京区
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
活動期間 1956年2002年
ジャンル ギャグ漫画少女漫画
代表作 おそ松くん
ひみつのアッコちゃん
天才バカボン
もーれつア太郎
レッツラゴン
受賞 第10回小学館漫画賞
(『おそ松くん』)
第18回文藝春秋漫画賞
(『天才バカボン』他)
第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞
紫綬褒章
第5回東京国際アニメフェア功労賞
公式サイト 赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!
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小学六年生の時、手塚治虫の『ロストワールド』に大いなるショックを受け、漫画家を志す。上京後は東京で工員などをしながら漫画修業にはげみ、つげ義春の推薦で1956年曙出版から上梓した貸本漫画嵐をこえて』でデビュー。

その後、赤塚よりも3歳年下の石森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。1967年に代表作である『天才バカボン』の爆発的ヒットと、その後の『もーれつア太郎』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』といった一連のヒット作や長期連載作品等により「ギャグ漫画の王様[1] と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。血液型はA型。

《夏目漱石》

日本の明治時代の小説家

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日慶応3年1月5日) – 1916年大正5年)12月9日)は、日本小説家評論家英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。

夏目 漱石
Natsume Soseki photo.jpg

1912年9月13日(明治天皇大喪の礼の日)[注 1]
誕生 夏目 金之助
1867年2月9日[1][2][3][4]
武蔵国江戸牛込馬場下横町
死没 1916年12月9日(49歳没)[1][2][3][4]
日本の旗 日本 東京府東京市牛込区早稲田南町
墓地 雑司ヶ谷霊園東京都豊島区
職業 小説家評論家英文学者
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 学士文学
最終学歴 帝国大学英文科
活動期間 1905年1916年
ジャンル 小説俳句漢詩評論随筆
主題 近代知識人の我執、個人主義、
日本の近代化
文学活動 余裕派反自然主義文学
代表作
デビュー作 吾輩は猫である』(1905年)
配偶者 夏目鏡子
子供 夏目純一(長男)
夏目伸六(次男)
親族 夏目房之介(孫)
松岡陽子マックレイン(孫)
半藤末利子(孫)
夏目哲郎(曾孫)
夏目一人(曾孫)
Portal.svg ウィキポータル 文学
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大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。

その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。

夏目漱石誕生之地碑

《フレディ・マーキュリーFreddie Mercury、》1946年9月5日1991年11月24日)は、イギリスロックバンドクイーンボーカリスト。また、ソロ歌手としても活動した。本名はファルーク・バルサラグジャラート語: ફ્રારુક બલ્સારા‌Farrokh Bulsara)。

フレディ・マーキュリー
Freddie Mercury
Freddie Mercury performing in New Haven, CT, November 1977.jpg

基本情報
出生名 Farrokh Bulsara
別名 Freddie Mercury
生誕 1946年9月5日
ザンジバル ザンジバル保護国
ザンジバルシティ ストーン・タウン
出身地 インドの旗 インド マハーラーシュトラ州
死没 1991年11月24日(45歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
ロンドン ケンジントン
ジャンル ハードロック
プログレッシブ・ロック
グラムロック
ピアノ・ロック
ポップス
職業 ミュージシャン
パフォーマー
シンガーソングライター
音楽プロデューサー
担当楽器 ボーカル
ピアノ
キーボード
ギター
活動期間 1969年[1]1991年
共同作業者 クイーン
公式サイト http://www.freddiemercury.com

唯一無二の優れた歌唱力と独自のマイクパフォーマンスで高く評価されている。また、「ボヘミアン・ラプソディ」や「キラー・クイーン」、「バイシクル・レース」、「伝説のチャンピオン」などのヒット曲を作詞作曲した。

1991年11月24日HIV感染合併症によるニューモシスチス肺炎のため死去。45歳没。

雑誌『ミュージック・ライフ』の人気投票では、1975年度の10位を皮切りに1976年度から3年連続で1位に輝き、1980年度にはキーボード・プレイヤーとして1位に、1981年度にはヴォーカリストとして再び1位に返り咲いている。

生い立ち

活動編集

クイーンに参加の当初からしばらくは、同じくメンバーのロジャー・テイラーと、ケンジントン・マーケットで古着屋を経営した。また、クイーンがデビューする直前にラリー・ルレックスという名義でソロ・シングルを発売している。

作曲者

ボヘミアン・ラプソディ」「輝ける7つの海」「キラー・クイーン」「愛にすべてを」「懐かしのラヴァー・ボーイ」「伝説のチャンピオン」「バイシクル・レース」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」「愛という名の欲望」「プレイ・ザ・ゲーム」と、グレイテスト・ヒッツに収録されている17曲のうち、10曲はフレディが作曲している[15]。1980年リリースの『ザ・ゲーム』まではクイーンの代表曲の多くを作曲した。その後の個人名義での作曲は、過去の焼き直し的な曲もあり、曲数もほかのメンバーとの比率の面で初期と比較して少なくなっていった。

彼の作曲の大きな特徴は、ロカビリープログレッシブ・ロックヘヴィメタルゴスペルディスコを含む、広いジャンルで作曲していることである。1986年のインタビューでは、「私は再び同じ事をするのを嫌っている。音楽、映画、演劇において、今何が起こっているのかを確かめ、それら全てを取り入れることが好きなんだ」と説明している[16]。多くのシンガーソングライターと比較しても、フレディはいろいろな音楽を組み合わせて作曲する傾向があった。

ライブパフォーマー編集

フランクフルト公演のフレディ・マーキュリー(1984年撮影)

ボトムレス・マイクスタンドによる1979年のライブ

フレディは世界中のスタジアムでライブ公演を行い、そのパフォーマンスで注目を集めた。そのスタイルはきわめて演劇的で、あるライターは、「スペクテイター」に掲載された記事で、フレディを「自身の変化自在な姿を駆使し、観客をじらし、驚かせ、最後には魅了してしまうパフォーマーだ」と述べている[17]アンダー・プレッシャーを共作し、フレディ・マーキュリー追悼コンサートでクイーンと共演したデヴィッド・ボウイは、フレディのパフォーマンスについて、「演劇的なロックパフォーマンスを見せるアーティストの中でも、フレディは破格の存在で、型破りだった。私はいつもタイツ姿の彼に見とれてしまう。私が彼のコンサートを見に行ったのは一度きりだったけれど、誰もが言うように、彼は間違いなく、観客を手のひらの中につかんでしまうことができる人物だった」と賞賛している[18]。クイーンのギタリスト、ブライアン・メイは、フレディについて「スタジアムの最後列にいる最後の一人まで、彼と繋がっているように感じさせることができる」人物だったと書いている[19]

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